選手の表情はコンマ秒単位で変わる。勝負は
「最高の一瞬」にシャッターを押せるかどうか。

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クリエイティブ・ディレクター
青木 紘二氏

富山県魚津市出身。1976年からプロカメラマンとして活動開始し広告写真や出版写真、スポーツ写真などを精力的に撮影。世界的に評価されているスポーツ写真ではオリンピックに縁が深く、夏季冬季合わせて20大会の撮影を手がけてきた。1998年の長野オリンピックから日本オリンピック委員会公式記録の撮影チームリーダーに。昨年開催された『東京オリンピック・パラリンピック』では組織委員会フォトチーフの重責を担う。株式会社AFLO代表。1998年SF世界スポーツフォトコンテストBest woman photograph賞他受賞多数。


写真にも映画にも
夢中だった少年時代

 子供の頃、カメラや時計などに興味を持ち始めると、何だか大人になったような気がしていたものですが、青木さんと写真の出会いはいつ頃だったんですか?

青木 写真は小学校に入ったときから撮っていました。当時は小学生が自分のカメラを持っていること自体珍しかったと思います。都会ではなく富山県の田舎でしたし、カメラもフィルムも決して安いものではありませんでしたから。私の場合、開業医だった父親が、自ら個展を開く、セミプロのようなアマチュアカメラマンで、自宅に暗室があるような恵まれた環境だったんです。だからフィルムもどんどん使えてどんどん撮って、小学校を卒業する頃には現像からプリントまで一人で全部こなすことができたんですよ。

 大人顔負けの、写真少年だったわけですね。

青木 写真だけじゃなく、父に連れられて映画を観に行っているうちに映画も大好きになりました。うちの親は好きなことには寛大で、映画館に行きたいと言えばさっと映画賃を出してくれる。子供がやりたいことを全面的に応援してくれる両親だったのは、ありがたかったなと思います。

 写真少年は映画少年でもあったんですね。カメラ、撮影、創造性という点では共通しています。

青木 高校生のとき、自分が観た映画についてエッセイを書いて『スクリーン』『映画の友』などの映画雑誌に送っていたんですが、それが採用されたことがあったんですよ。当時のお金で3000円、いまで言うと5万円くらいの謝礼が送られてきて。それで舞い上がってしまいさらに映画にハマっていき、大学に進学するときも「とにかく写真や映画について学ぶなら東京だ」と上京し、大学時代は映画研究会に入って年間350本くらい映画を観るような生活を送っていました。

 1年365日のうちに350本!それは凄い。

青木 鑑賞を続けていく中で気づいたんですが、映画というのはいろいろな見方ができるんですね。映像の美しさ、ストーリーの面白さ、監督の意図を読み解いていく楽しさなど。いい映画だと、何度も見るたびに新たな発見があります。ところが、邦画やアメリカ映画に比べてヨーロッパの作品は解釈が難しかった。キリスト教はもちろん、ギリシア神話に根ざしたものの見方・考え方というのも当たり前のように浸透していて、そうしたベースの部分をわかっていないと作品の本当の素晴らしさを理解できないわけです。だったらヨーロッパに渡って、現地で、歴史や文化、哲学を学んでみようと。

 それでスイスに留学したわけですね。日本の雪国・富山から世界の雪国へと(笑)。当時はまだ海外留学も簡単ではなかった時代だと思いますが、どんな学生生活を送っていたのですか?

青木 大学は寮生活で、授業の時間以外は、その学校の雑事や、寮の食事の手伝いをするなどして経費を節約していました。料理なんてほとんどできなかったのに、2つのホテルの日本食レストランで料理をつくったりもして(笑)。あとは葡萄摘みのアルバイトですとか。

 余暇を利用してスキー学校でも働いたそうですね。

青木 雪国生まれなのでスキーには小さい頃から自信があり、子どものスキー教室のアシスタント教師や、ゲストと一緒に滑る「ガード」という仕事もしていました。そのゲストの一人に、有名なF1レーサーのJ.スチュアートさんがいたんですよ!彼のガードに付けたことは、本当にいい経験になりました。

 勉強のかたわら、国家認定のスキー教師の資格を取ったということですが。

青木 スイスでは国の大事な賓客もスキーでおもてなしするので、スキー教師の資格を取る学校に国の税金が使われているんです。当然、外国人が資格を取得するのは難しいのですが、私の場合、スキー学校でのアルバイトでスイススキー連盟の会長と知り合うことができ、そのご縁で養成コースに入れ、受験資格を得ることができました。

 その受験にみごと合格して、しばらくはプロのスキー教師としてスイスで働いていたわけですね。映画への夢はどうなっていたんですか?

青木 その頃は半ば諦めていて(笑)。でも、そのまま一生スキー教師でいるのも何か違うなあと。スイスと日本を行き来する生活の中で「映画は多くのスタッフが必要だけれど写真なら一人で撮れる」と、ふと思い立って、突然「プロカメラマン宣言」をしたんです。忘れもしない1976年。27歳のときでした。

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『青木紘二クライアントワーク Part1(写真展図録)』より

後発のフォトエージェンシーから
「世界のアフロ」へ

 自分でプロカメラマン宣言をするとは、ずいぶん大胆でしたね。

青木 国家試験もないですし(笑)、宣言するのは自由ですから。早速、知り合いに、どんな仕事があるのか聞いてみたところ、プロとしてやっていくには広告の仕事が一番効率よく稼げるということだったので、規模としては中堅だけれど写真には定評のある広告会社に作品を見てもらいに行ったんですね。ライト・パブリシティという、篠山紀信さんも所属していた会社です。そこで社長に写真を見てもらったら「これならやっていけるよ」と言われて。このひとことが、大きな自信になりました。

 その自信が、どのような経緯で実績に繋がっていったのですか?

青木 当時は、海外、とくにヨーロッパに詳しくて言葉も話せるカメラマンが少なかったので、旅行物のパンフレットなどの撮影の仕事をいただけることが多かったんです。私が行けば、現地ガイドも通訳も要りませんからね。その後、1980年~90年代にJALのスキーパックツアーが大流行して。

 青木さんお得意のスキーが、ブームになってやって来たと(笑)。

青木 スイスでスキー教師をやっていた頃お客さまをあちこちのスキー場にご案内しスキー場に詳しかったということもあって、スキーブームの時代には私もツアーの企画づくりに協力していました。そうした制作作業のなかで、私が撮ってきた写真をツアーパンフに使用する、というパターンが定着し、その流れで、スポーツとしてのスキー写真も撮るようになっていったわけです。

 留学時の経験を最大限に活かした形ですね。

青木 そのスキー関連の仕事が軌道に乗ったので、自分の企画をやりたくなって提案したのが『地図にない村』という広報誌の中のページ企画です。当時はJALに限らず海外旅行と言えばフランスのパリ、アメリカのハリウッドといったようにお決まりのイメージがあったんですが、それはフランスやアメリカの本当の姿とは言えません。そこで地図に載っていないような小さな村で暮らしている人たちのありのままの姿を写真で伝える、写真の力で見せる企画をやりたいと。

 企画が通り、実際に世界各地を飛び回ったわけですね。

青木 取材する小さな村は、友人のツテをたどって探しました。ヨーロッパの友人から「こんな村があるよ」と教えてもらったり。この企画には大きな反響があり、写真の力を感じさせるという意味でも、なかなかいい企画だったのではないかと思います。

 仕事を受けるだけでなく企画提案できるというのは強みですね。

青木 企画提案できるカメラマンは意外と少ないらしくて、自分で仕事を取れるようになった2年目あたりからカメラ一本で食べて行けるようになったんです。そうすると私の悪い癖で、何か別のこともやりたくなってきて。会社でもつくるかと思い、いろいろ調べたり人に聞いたりしていたんですが、会社を経営している友人のお父さんに「会社経営を甘くみるな」と叱られてしまいました。「それでもやりたいのなら、写真に関係する会社をやった方がいい」とアドバイスもいただき、写真の貸出業務をするフォトエージェンシーをやろうと設立したのが、現在のアフロです。1980年のことでした。

 80年代当時はフォトエージェンシーブームでしたよね。

青木 すでに300社ほど同業の会社がありました。その301番目の小さなエージェンシーとして誕生したわけですから、何か強みがなければなりません。そこで思いついたのがスポーツ写真、とくにスキーの写真でした。私は性格的に、自分で撮影しながら同業者とも心を開いて仲良くできるタイプだったので、現場で知り合った多くのスポーツ写真家に「こういう事業を始めたんだ」「貸出用の写真を預からせてほしい」と頼んでみたら、国内・海外問わず、みんなが二つ返事で作品を提供してくれました。それから次第に「スポーツ写真ならアフロ」というイメージが定着して、貸出だけでなく撮り下ろしの注文も増えてきたわけです。


後世に残る、オリンピックの
公式写真集をつくりたい

 現在では、スポーツ写真のアフロというだけでなく、オリンピック写真のアフロというイメージもかなり強いですよね。

青木 最初はオリンピックを撮影するのにプレスカードが必要だというのも知らなくて(笑)。カメラマン宣言をしたばかりの1976年、冬季オリンピック・インスブルック大会で写真を撮るぞと現地へ乗り込んだときのこと。すぐにプレスカードをもらえるのだろうと思い会場で「ください」って頼んだら、まったく相手にされませんでした。しょうがないからチケットを買って一般の客席から撮ったんですが、たかだか300ミリの望遠レンズもなかった時代、豆粒みたいな写真しか撮れなかったんですよ。カメラマンとして正式に入れるようになったのは8年後、84年のサラエボ大会からです。

 やはりオリンピックというのは、選手だけじゃなく、カメラマンにとっても特別なものなんですね。

青木 もちろんです。子供の頃、イタリアのコルチナ・ダンペッツオで開催された冬季五輪で、アルペンスキースラロームの日本代表だった猪谷千春選手が銀メダルを獲ったときには本当に嬉しかった。父と行った映画館のスクリーンに大きく映し出された速報映像で、メダル獲得のニュースを見た記憶があります。まだテレビがない時代でしたからね。アルペンスキーでのメダル獲得は非常に難しく、未だ日本人では猪谷さんしか獲っていません。こうした偉大な日本人選手の活躍によって、オリンピックへの憧れがどんどん強くなっていきました。

 1964年の東京オリンピックの影響も大きかったのでは?

青木 東京に決まったときは興奮しましたよ。日本選手だけでなく、当時、裸足のマラソンランナー・アベベが注目され、私自身も憧れていましたから。沿道に応援に行き、彼が走ってくるのを見たときは本当に感動しました。スタジアムに入る直前のカーブで、父からもらったカメラを構えて夢中でシャッターを切ったのを、いまでもはっきり覚えています。

 その感動を原点に、夏冬合わせて20回ものオリンピックで撮影を手がけるようになり、98年の冬季長野大会では、組織委員会オフィシャルフォトチームのリーダーとして活躍なさいましたよね。

青木 長野開催が決定したとき、公式写真のエージェントはほぼ他社に決まっていたんです。それでも、自分としてはどうしても諦めきれず、「単に写真が並んでいるだけでなく、長野オリンピックを歴史に残し後世に伝えるようなものを作りたい」と県庁に交渉に行ったら若い人たちが共感してくれ「アフロに公式写真集をお願いしよう」と上に掛け合ってくれて。それで最終的にうちが任されたという経緯があります。

 若い担当者の期待に応え、日本中の人の期待に応え、素晴らしい写真集が完成しましたよね。

青木 長野大会以降、作品としての写真集を残したいとJOCに話して、日本選手団の公式写真集はアフロが手がけるようになりました。責任の重さとともに大きなやりがいを感じています。

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『青木紘二クライアントワーク Part1(写真展図録)』より

一瞬の決断で決まる
スポーツ写真の良し悪し

 ところで、スポーツカメラマンに絶対的に必要な能力というのは、まずは反射神経でしょうか。

青木 必要と言いますか、スポーツ写真をずっとやっていると、速い動きを撮れる能力が身につくんですね。目まぐるしく変化するシーンの中でもシャッターを押す瞬間がすぐ決まるようになるんです。人間の表情ってわずかコンマ秒の単位で変わりますから、どこでシャッターを切るのか、一瞬を判断する力が重要になってきます。ほんのちょっとの目線の違いで写真の良し悪しが大きく変わってくる。アクションも大事だけれど、むしろ表情の動きの方が、プロとしての見せ所になると思います。

 青木さんの代表作には、派手なアクションよりも、ただ立っているものとかが意外に多いですよね。

青木 2022年の北京冬季五輪で撮った羽生結弦選手の後ろ姿の写真は、公式写真集にも収められましたが、普通はそんなの撮ろうと思わないでしょう?顔が映ってないとファンは喜ばないですし。でも背中で語る立ち姿がカッコいいと思ったから私は瞬間的にシャッターを押したわけです。

 なるほど、ファンの目線とは違うプロの判断ですね。

青木 もちろん、女性は美しく撮らないと本人も嫌がるし、ファンが喜ぶような笑顔ばっちりの写真というのも入れ込まないと、売れる写真集にはなりません。だけど表情にわずかに出たリアルな感情とか、勝った瞬間の心の動きが伝わってくるような躍動感のある写真も、スポーツの記録としては必要になってきます。ファン目線とツウ好みの、そのバランスが大事なんですね。

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 その選手のどんな表情がいい表情なのかをあらかじめ知っておくことも必要なのではありませんか?

青木 若い頃はいろいろな大会に出かけては選手に張り付いて、その人がどういう人か、どういう動きをするかのを詳細に把握していました。いまもアフロの若手カメラマンは同じようことをしていますが、私自身、現在はそこまで時間をかけることはありません。長年の勘で、選手がどういう動きをしてどんな表情をするかというのを読めるようになってきましたので。

 会心の読みができた、という例はありますか?

青木 2002年、FIFAワールドカップでゴールを決めたベッカム選手の写真は、世界的に有名になりました。ゴール後、彼は客席に向かって渾身のガッツポーズをしたんですが、その絵を撮れたのは現地カメラマンの中で私だけだったんです。他のカメラマンはみんなゴールに行ってしまったのだけれど、私だけ彼の後ろについて移動しました。そういうときって何も考えずに勘だけで動いているんですね。ゴールシーンよりベッカム自身を撮ろう、ついて行けば何かあるだろう、と。直感的な読みというのは大事ですね。その写真は翌日世界52の新聞のトップを飾ることになりました。後日、本人にプリントをプレゼントしたらとても喜んでくれましたよ。

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2002 FIFA W杯 日韓大会
David Beckham (ENG),
JUNE 2, 2002 Football / Soccer : David Beckham of England
celebrates after his corner led to the first goal during the England
v Sweden, Group F, World Cup Group Stage match played at the
Saitama Stadium, Saitama-Ken, Japan on June 2, 2002.


プロになっても必要な
アマチュア写真家の心

 もとも写真写りのいい選手、あまりよくない選手、ということもあるんでしょうか。

青木 同じ選手でも、キャリアを重ねるとともに、写真写りが洗練されてくることがあるんですよ。テニスの錦織圭選手は、若い頃は強いヒットをすると口元が歪む癖がありました。歪みが大きいと一生懸命プレイしていることやもの凄いパワーを使っていることは伝わるけれど美しさの面では損なわれるものもあります。本人にも、一度、これだと広告には使いづらいんだと話をしたところ、写真を見ながら思うところがあったんでしょうか、何か意識が変わったんでしょうか、最近は口元の歪みが目立たなくなりました。逆に2022年の北京冬季五輪で大躍進を見せたフィギュアスケートの鍵山優真選手は技術が評価されて銀メダルを獲れたけれど被写体としてはこれからの人という感じがします。まだ撮られ慣れていない部分があるけれど、競技を続けて実績を挙げていくともっと洗練されていって、どんな動きを撮られても絵になるような存在になっていくでしょう。

 選手の個性を引き出しながら、写真に、青木さんの個性を出そうという意識はあるんですか?

青木 プロの写真家って、プロの部分と同時にアマチュアの部分も大事にしていかないといけないという持論がありまして。プロというのはお客さんが欲しい写真を撮る、これは当たり前のことです。写真を売って食べているわけですから。それにプラスしてアマチュアの部分として、自分が撮りたい写真を1枚仕上げることも忘れてはいけません。

 青木さん自身が「アマチュア視点」で撮った写真の中で、最近、とくに印象に残っているものはありますか?

青木 体操の内村航平選手の「手のアップ」の写真ですね。種目は鉄棒。それまでの演技の経過を見ていて「ひょっとすると内村はこれで最後かな」という予感があり、何か象徴的な写真を撮りたいと思って、咄嗟に、彼が鉄棒を掴むときの手に寄ったカットを押さえたんです。鉄棒の演技自体が長いものではないので、手を撮るのにかける時間は10秒もないくらいでした。集中して1枚だけ。思いついたらパッと撮らないと演技が終わってしまう。どうしてもこの1枚を残したいというのは明らかにアマチュアとしての気持ちによるものでした。

 そんな初々しい視点の作品を、発表する機会がないのは惜しいですね。

青木 いや、その写真は、日本写真家協会の会報に私のことが採り上げられたとき、記事と一緒に掲載していただけました。たとえ発表できなかったとしても、アマチュア視点を忘れないというのは、プロの写真家にとってとても大切なことなんです。


デジタル化時代の
スポーツ写真のあり方

 瞬間を押さえるという意味ではデジタルカメラのメリットというのは大きいですよね。

青木 いまはデジタル機材なので1秒間に30枚撮れます。フィギュアスケート1試合だとだいたい8000枚相当の写真を撮ることになりますね。フィルムのように入れ替えもせずに済むのは便利になりました。フィルム時代、私は36枚撮りのフィルムを入れたカメラを2台持って、72回数えながらシャッターを切り、あと何枚撮れるかを考えていましたからね。勝ったときのガッツポーズ用に5枚は残しておこうとか、そういう計算までしていました。

 デジタル化によってフォトエージェンシーの仕事も様変わりしたのではないですか?アフロの経営者として感じるところもいろいろあると思います。

青木 昔はストックを一枚一枚めくって、欲しい写真を検討していたんですが、いまは検索であっという間に出てきます。ビジネスとしては、その方がいい。確かに、ポジフィルムで管理して、貸出のためにデュープ(複製)を作らなくちゃいけないという時間や手間はかかっていたんですが、デジタル化することで、実は維持コストは上がっているんですよ。現在アフロには1億枚以上の写真がストックされています。

 単価的にはどうなんですか?

青木 デジタルになってカメラの機能性が高まり、プロでなくともそこそこの写真が撮れるようになったことで、どうしても写真の単価は下がっています。アマチュアの人が撮った写真を安価で使えるストックサービスも出てきましたし、アフロでも取り入れて1000万枚ほどストックを持っていますが、これも時代の流れなんでしょうね。老舗デパートの広告写真を3回撮ったら家が建つと言われていたほどプロの広告写真がお金になっていた時代を知っている身からすると、足元から前提が崩れるほどの変化です。残念ながら、これから写真はますます薄利多売の商品になっていくでしょうね。

 ネット需要を中心にスチールよりも動画のニーズが高まっているという傾向もあるのではないでしょうか。

青木 アフロでも動画の供給サービスを始めていて、飛躍的に伸びています。スポーツに関して言えば、競技全体の流れを見ることができますから、ファンの需要があるのは当然でしょう。ただし、動画を抜き出せばそれがいい写真になるのかはまた別のこと。ロケーション、アングルなど一瞬を切り取る写真の力は今後も生き続けていくはずです。私はそう信じています。

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