作品の芯を理解し、感じとる
読者の心の奥深くへ橋渡しになる装幀を

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ブック・デザイナー/アート・ディレクター
ミルキィ・イソベ氏

東京都出身。東京都立大学人文学部心理学科卒業。幻想系の画廊勤務を経て1978年に今野裕一と共に出版社・ペヨトル工房を立ち上げ『夜想』を創刊。98年に会社が解散するまで『WAVE』『銀星倶楽部』などの雑誌や書籍の装幀・アートディレクションを手がける。2000年にステュディオ・パラボリカを設立し03年に『夜想』を復活。1993年〜98年に『文藝』(河出書房新社、季刊)のアートディレクションを担当。1996年〜2013年にはポケモンカードのマスターデザインを担当。第37回造本装幀コンクール審査委員会奨励賞、広告デザインとして「消費者のためになった広告」最優秀賞、日経ビジネス・アドインパクト賞受賞(大林組)。著書に『ブックデザインミルキィ流』(毎日コミュニケーションズ)、『造本解剖図鑑』(ワークスコーポレーション)、『組む。』(共著/ビー・エヌ・エヌ新社)など。


自ら出版社を立ち上げ
実践を通じてデザインを学ぶ

 ミルキィさんの装幀は書店で並んでいる本の中でもパッと目を引く、独特な世界観がありますよね。

ミルキィ 自分の個性とか世界観とかを意識することはあまりないんです。ずっと自分にできることをやってきただけなので、それが結果として個性になって出ているのかな、と。そもそも私は美大や専門学校でデザインを勉強したわけでもないし、20代で自分たちの作りたい本がある!という思いから自分たちで出版社を立ち上げて、何もかも自分たちでやらなくてはいけない状態から始まったので。出版社を作る前に画廊に4年ほど勤めていてそこでカタログを作る仕事はしていたんですがデザインまでは経験がなかったんですね。こういうふうにしたいけどどうしたらいい?と相談したり、指定の仕方も教えてもらったりしながら、本づくりをすることになりました。だから私の本当のエディトリアルデザインの先生は印刷所の方々だったのではないかと思います。

 最初からデザイナーだったわけではないんですね。

ミルキィ 自分では編集をやるつもりでいたんですが、もともと興味の対象が芸術だったので、アートを扱う本だとついこだわりが出て、いろいろ要求をしすぎてデザイナーに逃げられてしまったりして、自分でやらなくちゃいけなくなって(笑)。
 でも最初の頃は本当に何も知らなかったので失敗もしましたよ。いまとなっては笑い話ですが、フランス語の翻訳もので、原文がイタリックになっている部分に宋朝体というフォントを使おうと思って指定を入れたら、いつまでたっても上がってこないのでどうしたんだろうって思ったら、そんなに使う文字じゃないので手持ちがなく活版の活字を彫っていたという(笑)。写植を見て選んだのだから、そこから金型を起こすこともできたはずなんですけど、木を手で彫っていた!道理でなかなか上がってこないはずです(笑)。それだけで3週間くらい待って、しかも仕上がりがすごく小さくて、何が何だかわかりませんでしたね。自分で出版を始めた頃は万事そんな感じで、あわあわしながらとにかくものを作っている日々でした。雑誌に入れる広告を取る営業も自分でやっていました。たまたまツテがあり営業に行ったゼネコンの大林組という会社で、「広告出すから、あなたがゼロから作ってみる?」と言われて、素材をもらってデザインすることになったりするうちに、一緒にやっていた編集長に「そろそろ覚悟を決めてデザインをやった方がいいんじゃない?」と言われたのを機にデザインの方に軸足を移すことになりました。だからデザイナーとしての出発は広告デザインの方なんですね。その後も大林組さんとは長くお付き合いいただきました。

 とんとん拍子に進んでいったんですね。そんな中でMacを使ったDTPをいち早く取り入れたブックデザインで注目を浴びたんですよね。

ミルキィ 機運に満ち満ちていた時代だったんです。私はパソコンも触ったことなかったので、電源の落とし方すら知らなかった状態からのスタートです。いきなりグラフィックのソフトを渡されて、1週間で表紙を作って入稿したり、とか。教わりながら何とか作ったんだけど、それがたまたまテクノポップの特集号だったので、未熟なグラフィックでも何だかテクノな感じがするから許されたという(笑)。いつも急に始まって、何だかわからないけどとにかく始めちゃうという感じでした。ラッキーなことにすべてが草創期だったので、何も知らない状態から始めてもすぐに追いつけたんです。やることに意味があり、やっていくうちにデザインもできるようになるという、いい時代でしたね。


新しい文学の流れの中でも
あくまで内容主義を貫く

 出版業界でミルキィ・イソベさんの名前や装幀された本をよく見かけるようになったのは、河出書房新社の文芸誌『文藝』のアートディレクションを手掛けられたころからだったように思います。

ミルキィ 『文藝』のときは、いきなり雑誌全体のアートディレクションをやってくださいと言われて、当時、自社媒体として『夜想』のほか『WAVE』『銀星倶楽部』など雑誌形態の定期刊行物があったのに、先方もそれを承知の上で頼んできたんですね。ちょうど文学の傾向がガラッと変わる節目の時期だったんです。新しい感覚の文学を模索することを編集部もやりたがっていてそれで私に声がかかったんですね。それまで自社では、アート系のもの、たとえば美術や映画、演劇、幻想文学といったカルチャーをスタイリッシュにデザインするようなものをメインにやっていたわけです。『文藝』は純文学の雑誌だけど、文学にカルチャー的なものを取り込んでいきたいという志向で私に頼んできたんですね。それは面白いかも、と思って引き受けてしまいました。私がアートディレクターになってすぐ編集長が30代の若手に変わって、思い切りスタイルを変えたんです。改革の時期ということで、『文藝』にとってもアヴァンギャルドな時代でしたね。表紙の系統も年度ごとに変えていって、コンピュータグラフィックを全面に出したデザインの年度もあれば、海外の現代美術作家それも変態的な作風で知られるポール・マッカーシーなどかなり前衛的な作品を使った年度もあり、ミュージシャンの人に描いてもらった絵を使う年度ありと、当時としてはかなり実験的なことをしました。私の任期が終わってアートディレクターが変わってからも『文藝』は新しい文学を模索し続けているんだけど、表紙にアート色を出したのはこの時だけだと思います。

 『文藝』で注目を浴びた作家の書籍の装幀はいまもよく手掛けられていますね。

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壁の中
後藤 明生/つかだま書房(2017・新装愛蔵版)

ミルキィ 『文藝』をきっかけに日本の文学作品を手がけることは増えましたね。文学の装幀を手掛けるとき、私はできるだけゲラを読んでおくようにしているんです。装幀家、ブックデザイナーの中にはタイトルだけもらって感覚的に決める人もいて、それもありだとは思います。異化効果みたいなものもあるだろうし数をたくさん手掛ける場合は効率もいいだろうし全然否定はしないけど、私は内容主義なのでそれはできない。装幀は本の顔だけど、説明になってしまってはいけないという考えでやっています。あくまでもいざないであって、網みたいにふわっと投げ掛けて、読者が読み終わったとき、ああこれはそういうことだったんだと、表紙のビジュアルやタイトルの文字に納得してまた楽しんでもらえるというのが理想なんです。内容や結論を説明するような形にはしないけれど本質はちゃんと拾ってある、そういう装幀を目指しているから、作品を読まないわけにはいきません。

 なるほど、純文学の作品は簡単に説明できないですからね。

ミルキィ たとえば人文系の書籍の場合は、内容への理解が間違っているといけないので、編集者から最初の段階でオリエンテーションしてもらって論の向こう側にあるものをきちんと把握したうえで、ビジュアルをどう入れるかあるいは入れない方がいいかなどディテールを決めていくことが多いんです。でも文学は読む人が自分の側でその世界を感じ取るもの、つまり何かを求めて本を手に取るわけだから、求めるものを掴めるよう誘う作りにしたい。エンタテインメントだったらそのものズバリ欲しいものをポンとのっけてもいいんですけど、純文学は抽象度が高かったり、問題提起をしていたり、深い心の問題とか幻想的な世界を表現していたり、イージーなものを出して集約するわけにはいかず、奥深い部分に橋渡しをするようなデザインをしていくのが難しい。そんなことばかりやってきたものだから、お手軽なエンタメ系の仕事はあまり来ないんですね。だからつねに読んで、考え抜いて吟味していく装幀をやっていくことになります。でもそういう仕事の仕方をしていると作家さんが喜んでくださる。文学関連の私の仕事はほとんど作家さんからの指名でいただくことが多くなっています。


表紙のタイトルも本文も
とにかく「はじめに文字ありき」

 独自のフォントづかいもミルキィさんの特徴のように思います。

ミルキィ タイポグラフィにはこだわりがあります。基本的には、文字からスタートしている人間だと自分では思っているので、タイポグラフィについては、一見何でもなさそうに見えて実はすごく手を掛けていることが多いです。まずタイトルをもらったら最初にそのタイトルの文字を組んでみるんですよ、ビジュアルなしで文字だけ。それでこれは横組みはあり得ないとか、縦組みがいいけど長いから1行では読めないとか、長いけど文字の並びが呪文みたいでいいとか、いろいろなパターンがあって、実際に組んでみながら考えていくんです。必ずしも長いからダメというわけじゃなくて、視認性というんでしょうか、見ただけであっと思う、引き込まれるような組みがあるんですよ。書籍との出会いは、一般的には書店の店頭なわけですから、ふっと読めちゃう要素が大事ですよね。人間って、読めないと買わないんですよ。些細なようだけど読めない漢字が使ってあったり、長すぎて目が追いつかないものは受け付けないから買わない。その敷居を、文字の組み方ひとつで少しでも取り除きたいわけです。だから最初の段階で、タイトルがどんなふうに見えるかというシミュレーションのため10個くらいいろいろなフォントでタイトルを打ってみて、組み合わせてみてから選んでいるわけです。同時にイメージも大まかに浮かび上がってきます。その作品が持っている感じを伝えられる文字にしたいという方針があるから、フォントで出てくるそのままの文字じゃなく、文字の部分の細かいところ、線の角度や間隔などをところどころバランスを見て直していったりするわけですね、普通の人はパッと見気づかないくらいのレベルで。そうして目に入りやすい、ぴったりくる文字の並びに仕上げて、タイトルの収まりが決まったらビジュアルを考えていくわけです。私の場合はとにかくはじめに文字ありき、です。でも結構タイトルが決まらないこともあるので、そういう時は最初に本文を組んで渡すんですが、もともと本文を先に組んで渡していることが多いです。本文の組みによって、装幀の文字の位置ってだいたい決まってくるんです。本文の天地がこの寸法だからタイトルはこの位置に来るといったように。本文の版面と見出しの位置、目次や本扉の文字位置はぴったり同じじゃないんですよ。それぞれ本ごとに要素などによってルールを作っていくんですね。それがカバーや表紙といった外回りと整合性がとれないと私は気持ち悪い。位置の関係のバランスが崩れていると、ページに目を通したときに目の動きがぴょんぴょん踊ってしまうけど、そうじゃなくすーっと流れていくような、目線の動きが納得いくような位置関係のルールがあるんですよ。文庫本やシリーズなどで、中面のフォーマットがすでに決まっていて、私の方で触れないこともあって、その場合、ゲラで寸法を全部測って、外側の文字位置を調整するというような作業をしますね。本はまとまりとして見てもらうものなので、中面は私がやっていませんとは言えませんから。

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星夜航行』 飯嶋 和一/新潮社(2018)
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山の人魚と虚ろの王』 山尾 悠子/国書刊行会(2021)

 版面の位置や組み方によって読みやすさが変わってきますよね。

ミルキィ 私に限らず、気を使うデザイナーは本文組の読みやすさも含めて版面の位置にまでこだわって、読みやすく、あるいは入り込みやすくする工夫をしていると思うんです。逆にどんなに有名なデザイナーが手掛けていても版に指がかかって読みづらい版面もあって、ぱっと見はスタイリッシュでいいんだけど、実際には読みづらくて嫌になって、読み進められなくパターンもあります。

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凍(いて)
トーマス・ベルンハルト /河出書房新社(2019)
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小泉今日子書評集
小泉 今日子 /中央公論新社(2015)

 なるほど、文字組みで読むペースが掴めるんですね。

ミルキィ あとは字数のバランスですね。人にはそれぞれ呼吸があって、どれだけ続くかという問題があるんですけど、それを超えると読めないんですよ。1行が長すぎて伝わらないことってよくあります。文字量を詰め込む必要があって、1行に60字以上、小さい字でたくさん入れている本をときどき見掛けますが、考え方を変えて2段組にすればいいんです。カッコよく見える2段組にすればもっと読みやすかったのにと思いますけど、そういうブックデザインを見ると、この人絶対自分で読まないだろうなってわかってしまう(笑)。だって読んだら同じ内容でも時間がかかるのわかりますもん。字は小さくても構わないんだけど、度を超えて長いのは、集中して読めないですよ。2、3行までなら何とかなるけど、それが20数行連なっているとたぶん無理。頭というよりも気持ちが追いつかない。途中で追えなくなって、どこを読んでいるかわからなくなりますね。字数の問題は大事です。

 1行に詰め込める適切な字数は、作品や本ごとに変わってくるんでしょうか?

ミルキィ これは著書にも書いたんですけど、作家さんごとに呼吸が違いますし、作品ごとにも物語を語るブレスが違うんです。読者は黙読するわけだけど、実際には頭の中で言葉が響いているって考えるんです。だからリズムがいい感じのところに改行がくると、次が自然に読めるんですよ。それで3行読めたら、全部すらすら読めるんです。だけど最初の3行くらいに言葉が割れたり切りづらいところでまたいでいっちゃったり断絶があったら、読むのが遅くなるんですよ。我慢して読まないといけなくなる。とくに大事なのが最初の3行、それから1ページ、ここでリズムを掴めたら、その人の呼吸を覚えたことになるので、あとはちょっとくらい変則的な部分があっても大丈夫なんです。ページの切れが悪いと読んでいても前のページに戻って読まなくちゃいけないでしょう。ポイントとしては、単語の切れ方が思考の途中にならないようにすること。文章は完全に終わらなくていいんです。続いている感がちゃんとわかるから。だけど言葉がわかれちゃうと、人の記憶って定かでなくなってしまうんですね、それは避けたい。

 何気なく読んでいる文字組ですが、とても奥が深いんですね。

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ポケモン イーブイ 限定書籍 EVs
EVs+cafe(2018)
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造本解剖図鑑
ミルキィ・イソベ監修 ワークスコーポレーション
(2008)

デザイン以前に紙が好き
紙でしかできない読書がある

 ミルキィさんのこれまでの著書は『造本解剖図鑑』(紙の紹介に特化した内容)といい、『ブックデザインミルキィ流』(紙の解説だけでなく印刷・加工や文字組など装幀にまつわるノウハウをトータルに解説)といい、これまでやったお仕事を例に、使った紙や技術などを網羅的に紹介していらっしゃいます。正直、ここまで明かして大丈夫なんだろうか?と思ってしまいます。

ミルキィ 私は自分がやったことを内緒にするつもりはなくて、むしろどんどん真似してほしいという気持ちで著書を出しているんですね。魅力的な紙をたくさん紹介しましたが、いま、紙はどんどんなくなっているんです。そうすると自分のやりたいことができなくなってしまう。逆に自分の使った紙や技術を真似してくれる人が増えると、単価も下がるしその紙や技術が広まって生き延びることができるでしょう。私一人が使える量なんて知れているわけで、どんどん教えて広めていくことが大事なんです。もしその結果、自分のやっていることが平凡になってしまったら、次の新しい手を考えればいいだけなので、自分が大切にしているものがなくならないことが大事なんです。

 知識や技術はマニュアル化できますが、ビジュアルなどの発想にまで言及されていますね。

ミルキィ 著書には自分の手掛けた本を例として挙げているので、自分がやった実験や提案も説明しています。帯をめくったら出てくる仕掛けとか、一見スミ一色なんだけどよく見ると絵柄が入っているとか、そういう遊びってわかる人にはわかるし、見つけられたらニヤリとするくらい楽しいじゃないですか。そういう遊びを受け止めてくれる人を養うためにも、アイディアや遊びの部分も網羅しています。出版や印刷を一つの文化として考えると、人に広めた方が文化としてもレベルアップすると思うんです。

 最近は電子書籍も出てきて、インターネットやサブスクリプションコンテンツに紙の本は押されつつあります。

ミルキィ 私はもともとデザイン云々の以前に紙が好きなんです。道を歩いていて、変わった紙が落ちているのを目にしてつい拾ってしまったり、旅先で、魅力的な紙を持っている人に、土地勘もないのにふらふらついていって紙の入手先を教えてもらったこともあるほど(笑)。素敵な紙を見るとどんな使い方ができるだろうとつい考えてしまいます。ただ、使いたい紙があるからといって、それが合わない企画に無理に使うことはしないので、仕事としてぴったりのものがないから使いたいけど使えない紙が、山のようにあるんです。

 大好きな紙から最適なものを選んで本に使っていくのが楽しいんですね。

ミルキィ 紙選びには印刷との兼ね合いも重要で、この紙に印刷するとざらっとした質感になるとか、写真がシャープに出るとか、見る側の意識の動きが紙質と印刷の組み合わせで決まるんです。その面白さが一番活きるのが装幀でしょう。定番を作って長く使うパッケージデザインと違って、装幀はそのつど紙選びが自由ですから。しかも選んだ紙に印刷や加工を加えることで紙の表情が変わってくるんです。箔を使うかとかケースを付けるかとか、仕様のバリエーションもつけられるわけですし。つまり本は一つの世界のようなもので、カバー、表紙、見返し、扉、本文、さらには花布や栞ひもまでいろいろな要素の総体が紙と印刷の組み合わせでできているわけですから。紙を選んで印刷方式を考えていくことで世界が立ち上がっていく、その中で編集者だけでなく印刷や製本の現場の人たちとやりとりしながら、たまには無理を言ったりしながら(笑)、幅を広げていくのが面白いです。

 紙の本という存在自体に価値がある、と。

ミルキィ 手になじむ、という言い回しがありますが、個人的に人間の本質は触覚にあって、触ることと本の関係、つまり触覚と情報を入れることの間には深い関係があると思っていました。私は電子書籍で読んだものって割と内容を忘れてしまうんですよ。触感がないから付随的に頼るものがないからでしょうか。紙の本の場合は、まだ読んでいない次のページを触っていたりしますよね。自分の体で認識をしながら記憶装置の中に入れていくので、多層的で、視覚的にも触覚的にも時空的にも自分の中の空間を作っていく感じで、それがトータルで一つの情報として入ってくるから、情報の質が高いのではないでしょうか。電子書籍はデータを付き合わせするような読み方をするにはいいかもしれませんが、思考する読書体験には紙の本は欠かせないと思います。今世紀に入ってから、皮膚そのものが判断能力を持っていて、それが記憶として脳に蓄積されていくということが科学的に実証されたんです。すごく面白いじゃないですか。本をめくる指先が考えているんですよ、人間って。電子書籍も検索など便利に使えますが、思考する読書のための紙の本は絶対なくならない、なくしてはいけないと思います。電子メディアは10年単位でなくなっていきますからね。紙の本に関わる私たちのような仕事は未来を築いていく仕事なんだなと、あらためて思います。

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Fate/EXTRA Last Encore Ending Illustration Book』 SHAFT(2019)

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