銭湯文化を守りたい
銭湯の未来を開きたい
熱い思いを胸に4色のペンキで描き続ける富士山

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銭湯ペンキ絵師
田中 みずき氏

1983年、大阪生まれ、東京育ち。明治学院大学で美術史を専攻し、その卒業論文の研究をきっかけに、2004年、銭湯ペンキ絵師の中島盛夫氏に弟子入り。2013年より独立して活動を始め、銭湯だけでなく商業施設や宿泊施設などさまざまな場所にフィールドを広げ、新たなモチーフのペンキ絵も制作するように。銭湯文化を守り、銭湯の魅力を伝えるため、講演やインタビュー、執筆等にも精力的に取り組む。2021年春に自伝と銭湯ペンキ絵の歴史、魅力などを綴った著書を秀明大学出版会より刊行予定。
プライベートでは、便利屋を営む夫と一児の子育て中。本人ブログ「銭湯ペンキ絵師見習い日記」(田中みずき銭湯ペンキ絵制作記録)
http://mizu111.blog40.fc2.com


卒業論文の調査を兼ねて
町から町へと銭湯通い

 稀少な職業なんだろうとは思っていましたが、銭湯ペンキ絵師は、田中みずきさんを含めて、現在、日本でたった三人しかいないんですね。しかも若い世代は田中さんお一人。どういう縁でこの特殊な絵師の世界に入られたんですか?

田中 ペンキ絵に初めて出会ったのは大学のときでした。子どもの頃から美術が好きで、美術大学への進学も考えていたのですが、なかなか思うようにいかず、それなら美術の歴史を学んでおけば卒業後に自分が何か作品をつくっていくときに役立つのではないかと、一般の大学へ入り美術史を専攻したんです。その卒業論文のテーマに『銭湯のペンキ絵』を選んだのがきっかけでした。

 しかし普通に考えると、美術史と銭湯というのは、なかなか結び付きませんよね。

田中 個人的にメディアアートやインタラクティブアートなどの現代美術が好きで、よく展覧会も観に行っていたんですが、卒論のテーマを決めるとき、自分の考えを整理するために、あらためてじっくりと、好きな美術家やその人たちの展覧会の内容などを紙に書き挙げていったんですね。そうした作業の中で、福田美蘭さんや束芋さんといった憧れのアーティストが複数“銭湯”をテーマにした作品を発表していることに気づきました。それで急に興味が湧いてきて、生まれて初めて銭湯に行ってみたんです。文京区の『月の湯』(現在廃業)という銭湯で、季節は冬の寒いとき。湯船に浸っていると、もうもうと立っている湯気がペンキ絵の雲と一体となって、まるで自分が絵の中にいるような不思議な感覚になり、びっくりしました。それなのに、他のお客さんたちはペンキ絵を気にもせず体を洗っていたりして、見られているのかいないのか曖昧な存在でもあることも何だかとても面白くて。いろいろ調べてみたくなり、「卒論は銭湯で行こう」と。それから、都内を中心にあちこちの町の銭湯に通い始めたんです。1日に何軒かハシゴすることもありました(笑)。

 論文では“銭湯”の何についてテーマを絞り込んだのですか?

田中 なぜ銭湯のペンキ絵に「富士山」が描かれるようになったのかということや、ペンキ絵が歴史の中で人々にどう受け止められてきたかということを主題にしました。富士山のペンキ絵って、下の方を見ると小さな広告が並んでいて、それは地元の新聞やお店の宣伝や催し物のお報せなんですね。ペンキ絵はそれらの広告費で制作されるというのが当初のシステムだったようです。江戸時代、明治時代を経て、銭湯に現在のようなスタイルのペンキ絵が描かれるようになったのは大正時代あたりからという説が有力ですが、その頃の新聞を見ると、広告主として、富士山をモチーフにした会社が多かったことがわかり、広告主とペンキ絵の関係が密接にあったのではないかとか、そうした考察を論文に盛り込んでいきました。

 卒業論文の研究からペンキ絵に関心を持ったからと言って、それを職業にしてしまおうという人はなかなかいませんよね。

田中 論文のためにいろいろ調べているうちに、描き手がかなり少なくなっていることを知ったんです。当時、早川利光さん(故人)、後に私の師匠となる中島盛夫さん(1945年生まれ)、そして中島師匠の兄弟子である丸山清人さん(1935年生まれ)の三人だけ。このままペンキ絵という文化が終わってしまっていいのか、自分に何かできないかと、まず中島盛夫さんに連絡をとって「弟子にしてください」とお願いしてみました。最初は、「いつまであるかわからない仕事なので弟子は採らない」ということでしたが、食べていけるかどうかは別にしてせめて描き方だけでも教えてくださいと頼み込んだら、弟子入りさせていただけて。

 卒業と同時に、中島師匠の元で修業を始めたわけですね。

田中 はい。それから8年間修業を続け、2013年からは夫に手伝ってもらいながら描くようになり、現在に至っています。

大正湯(東京都大田区)での制作風景
大正湯(東京都大田区)での制作風景
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動き続ける師匠の手を見て
自分で考え、学び「盗る」

 いくら絵心があったとしても、初めからペンキという素材を使いこなせるものなのですか?

田中 油絵具と似た感じなのかなと思っていたんですがまったく違いました。溶剤からして違いますし、塗るときは筆でなく刷毛やローラーを使いますし、材料も道具も別物なんですね。ペンキは粘度が高くてムラになりやすく、湯気や何かで壁自体も傷んでいて凹凸も多いため、かなり力を入れて塗らなければならないんです。

 ペンキはたくさんの色を用意して持っていくのですか?

田中 使うのは、青、赤、黄色、白の四色のみなんです。

 印刷のインキと似ていますね。

田中 面積の広い空の色などはあらかじめ特色としてつくっておきますが、それ以外の細かいところ、例えば松の木の幹や葉の部分を塗るときなどはパレットの上で三原色を混ぜ合わせてその場で茶色や緑をつくっていくという、シンプルな手法です。何色ものペンキを用意すると、そのぶん缶を開け閉めする手間がかかったり、多数の缶を管理するのが大変だったりしますから。三原色を使えば、印刷と同じような原理で好きな色がつくれるわけで、缶の数も少なくて済み、効率的なんです。

 なるほど。職人技だからと言ってじっくり時間を費やすのではなく、効率重視の現場なんですね。

田中 ペンキ絵を制作するのは、ほとんどの場合、銭湯の定休日。1日で仕上げなければならないことが多いので、とにかく作業の効率が求められます。

 そうは言っても、あの大きな壁面でしょう。

田中 始めに壁全体を白く塗り潰すのではなく、もともとあった絵柄の上に白いペンキで下塗りをして直接描いていきます。順番としては、まず天井に近いところから下へ、床に向かってペンキを塗っていく。そうすると、塗っている途中でペンキが垂れても、次にその下側を塗るときに上描きして修整できますからね。そもそもペンキ絵というのは、富士山があり水がある風景画というような標準的な型があるので、ある程度は描き方や工程が決まっていて、すべてが合理的に進められるようになっているんです。だからあとはひたすら描いて描いて…自分の手に馴染むまで描いて覚えていく、という感じで。数をこなしていくうちに自分のスタイルのようなものも生まれてきますから。

 師匠の中島さんからはどんな指導を受けたんですか。

田中 職人の世界ですから、とにかく見て盗めというのが原則で、手取り足取り教えてもらえるなんてことはありません。見ていてわからないことがあっても、わかったつもりで実際にやってみたら何か違うと思っても、いちいち言葉で尋ねず、ものすごい勢いで動き続けている師匠の手を見ながら自分で考えて解決していくしかないんです。当時は「言葉でのアドバイスがないと、なかなか上達できない」と焦ることもありましたが、振り返ってみると、やっぱり大きな意味があったんだなと思います。そうやって自問自答しながら答えを見いだしていくスタイルは、独立して一人でやっているいま、すごく役に立っていますから。

 中島師匠が、昔の銭湯について語ってくれることはありましたか。

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田中 師匠がペンキ絵師の仕事に就いた1960~70年代頃は、銭湯も軒数が多くて羽振りもよかったらしいですね。銭湯の店主がどんどんペンキ絵の描き替えを依頼してくれるので、2人1組で回り1日に2~3件も描いていたそうです。その頃の銭湯のことは師匠の話や小説やエッセイなどからしか知ることはできませんが、子どもからお年寄りまで、幅広い世代の人が集まって、銭湯が一つの小さな町のようになっていた、というのは聞いたことがあります。庶民たちは銭湯でコミュニケーションをとって人間関係を築いていたんでしょうね。私が弟子入りして見習いをしていた時期には、銭湯で若い人の姿はほとんど見かけず、高齢の常連さんが多いというイメージがありましたが、最近は銭湯自体がSNSを活用したPR活動をしたり、銭湯好きの人たちが互いに情報を発信し合ったりして、若いお客さんも増えてきているように思います。少しずつ変化が起きているみたいですね。

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三筋湯 東京都台東区 都営大江戸線 蔵前駅
建物自体が歴史ある寺社風で豪華なつくりの銭湯。これまで少し変わった絵を描くことが多かったが今回はオーソドックスな“ペンキ絵らしいペンキ絵”にしたところ、ご主人のお気に入りになったという。

コミュニティとしての銭湯に
メディアとしてのペンキ絵

 独立後は、銭湯の店主と直接やりとりをしているわけですよね。制作の前にオリエンやプレゼンみたいなものはあるのですか?

田中 情報の発信者である店主さんの要望をできるだけ細かく聞き取ってペンキ絵に反映させるために、打ち合わせの段階で少しでも具体的にイメージを詰められるよう、あらかじめ構図のアイデアをラフスケッチにして持っていくようにしています。店主さんからのリクエストは「とりあえず富士山を描いてよ」みたいな、曖昧な指示であることも多いのですが、イメージ図の形でお見せすると、「富士山の位置を変えてほしい」とか「地域の名所を入れたい」とか、ときには「自分(店主)の趣味を反映したモチーフも加えてほしい」とか、具体的な要望がどんどん出てくるので、それを絵に落とし込んでいきます。

 そうすることで、お店ごとの個性が生きた作品になっていくわけですね。

田中 卒業論文にも書いたんですが、ペンキ絵には「情報を伝えるメディア」という側面もあるんです。銭湯とお客さんの間に介在して、コミュニティ空間に彩りを添えていくという役割がある。お客さんがその絵を見て店主と話をする機会が増えたり、地域の名所が描かれているのを見て「地元を大事にしている銭湯なんだな」と思ってもらえたり、ペンキ絵がそういうきっかけになればいいなと思ってます。

 ペンキ絵が一つのメディアであると同時に、ペンキ絵自身がSNSなど別のメディアに載って広がりをもっていく可能性もありますよね。

田中 私自身はツイッターやフェイスブックをやっていないのですが、インターネット上で何かしら情報を発信していくことは大事ですから、ブログだけは活用しています。SNSをやっている人がブログのリンクを貼ってくださって、そこから飛ぶ形で他の方が来てくださることもあるので、情報がネット上に存在しているということが重要なんでしょうね。最近は、外国の人にもアプローチできるように、銭湯名や住所は日本語だけでなく英語でも表記するようにしています。

 近頃は、確かにインターネット上で銭湯の話題が盛り上がったりしていますよね。

田中 グルメ記事みたいに、銭湯好きの人が、自分の行った銭湯の感想や写真を紹介していたり、逆に、銭湯のご主人や女将さんが自ら情報を発信していたりするケースも多くなっています。そうした情報のおかげで、「興味はあるけれどどんな場所なのかちょっと不安だ」なんていう人たちにも、銭湯のイメージや入浴客の雰囲気が伝わり、銭湯をより身近に感じてもらえるようになるんじゃないですかね。

 田中さんは銭湯以外に、アウディ・ジャパンやユニクロといった大手企業やブランドのPRをペンキ絵で表現する活動もなさっていますね。

田中 PR案件は、“ペンキ絵と広告の結び付き”という、私自身のこだわりから、積極的にお受けするようにしています。銭湯以外のところにペンキ絵を描く場合、ペンキ絵が外側からどう見られているのかを客観的に感じ取ることができて、とても刺激的です。自分にとって銭湯は何よりも大切なものであり「ペンキ絵とはこういうものだ」という自分なりのペンキ絵像も持っているので、企業PRの案件では、そうした自分の立ち位置と発注主が持っている銭湯観のギャップを一つひとつ確認しながらイメージ図案を起こしていきます。人それぞれにさまざまな見方があるんだなあと、あたふたしながら打ち合わせを進めることも多いのですが、相手の柔軟な発想に触発されて、最終的に自分の中の銭湯観が刷新されることもあるんですよ。

 企業PRという“外側”の世界であっても、とにかく銭湯が話題になるのはいいことですよね。

田中 銭湯文化を守る意味も込めて発注してくださるクライアントさんも多く、本当にありがたいなと思います。実際、PRの仕事によって、銭湯に興味がなかった人たちが注目してくださることも多く、ペンキ絵をさまざまな場所で人目に触れさせることで、銭湯がもう一度、社会的な経済の仕組みの中に入っていけるんじゃないかという期待やチャレンジの気持ちもあるんです。

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UNIQLO and JW ANDERSON
2020 秋冬コレクション用ペンキ絵

デザイナーのJ・アンダーソンが、コロナ禍ロックダウンの状況下で日本の伝統文化であるペンキ絵に注目し、ノッティングヒルの街並を描くようオーダー。直線的でパステルカラーの世界観にペンキ絵のエッセンスをプラスした仕上がりに。


伝統という型があるから
革新という変化に挑める

 いまや3人にまで減ってしまった銭湯ペンキ絵師の未来はどうなんでしょう。後継者は育っていくのでしょうか。

田中 意外に思われるかもしれませんが、やってみたいと問い合わせをくれる人は結構いらっしゃるんですよ。ただ、職業として成り立たせるためには、安全に働けて、かつ経済的にちゃんと暮らしていけるシステムが確立していないと難しいわけで、いま自分が身をもってしっかりやっていこうとしているのは「安全性や安定性、経済性を確保できるような働き方」なんです。しっかりした事例があれば、志願者も安心して挑戦できるでしょうから。

 スクールやワークショップを開いたりするのも、後継者育成に役立つのではないですか?

田中 いや、私の経験則からいうと、教室内での実習などよりも現場を見て育ってくれた方がいいと思うので、いまはとにかく、私自身が安定して暮らしていけるシステムづくりを頑張っていく、というスタンスでいます。

 ペンキ絵と切り離せない銭湯自体の未来も気になりますね。

田中 銭湯のあり方そのものが、だいぶ変わってきているように思います。例えば、近年のランニングブームにより“銭湯のロッカーを利用して着替えて、ランニング後にお風呂に入る”というような使い方をする“銭湯ランナー”と呼ばれるお客さんも増えてきているんです。走る曜日を決めて、銭湯に集まってみんなで一緒に走るとか、終わった後に休憩室で会話を楽しむとか、銭湯を介して人と人との新しいつながりが生まれてくるのは素晴らしいことだと思います。

 新たなつながりと言えば、IT全盛の時代なのですから、銭湯文化の素晴らしさが海外の人にも伝わっていってほしいですよね。

田中 はい。まだ実績は少ないですが、「外国人観光客に、銭湯のペンキ絵のキッチュな味わいを日本的なものとして楽しんでほしい」という思いで発注してくださるホテルなどもあって、新たな変化の手応えを感じています。ただ、今回の世界的なコロナ禍の影響もあって銭湯内の会話が制約されてしまったり、あまりよくない方の変化もありますけど。

 さすがにペンキ絵でコロナウイルスを撃退できませんものね。

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仲の湯 東京都江戸川区 東京メトロ 葛西駅
前回の絵を制作したときの、女将さんのアドバイスを参考にして制作。立体感と奥行が出るように心掛けた。さりげなく潜ませてある江戸川区浴場組合のキャラクター「お湯の富士」とアマビエを発見する楽しみも!

田中 せめて、一日も早く終息してほしいという願いを込めて、昨年から疫病退散の妖怪『アマビエ』を、さりげなくペンキ絵の中に忍ばせたりはしていますが(笑)。いまは、2~3年先のこともよくわからない時代ですから、銭湯の未来、ペンキ絵の未来がどうこうと言うよりも、自分にできることを日々こつこつとやり続けていくだけです。

 田中流のペンキ絵を探究していくと。

田中 ペンキ絵は基本的に風景画で、富士山が描かれることが多く、青い空と雲と、手前に水のある風景が入るという伝統的な型があるのですが、その型のどこをどう変化させながら各銭湯の個性を出していくか、というのが一つのポイントになります。型があるからこそ変化が見えてくるということがありますので、もし私のペンキ絵をご覧になるときは、伝統と変化のバランスなどに注目してもらえたらなあと思います。

 伝統を打ち破っていくだけが革新ではないわけですね。

田中 型を大切にするというのは、逆に、変化するためにものすごく重要なことなので、そこはきっちり守っていきたいですね。型を守りつつ変化に挑戦していくことだってできるわけで。他の絵師さんたちとの年齢のバランスを考えると、自分は、まだまだ新たな変化に挑んでいかなければいけない世代ですし、そうした挑戦をしなければ、ペンキ絵の道を選んだ甲斐がありません。

 入浴客が、変化を見慣れてしまうということはありませんか?

田中 藤子不二雄さんの『まんが道』という作品の中に、銭湯に行った主人公がペンキ絵の変化に気づくシーンが出てくるんですが、私はそのシーンが大好きで、ペンキ絵は額縁に入った絵と違い、一定の期間で次々変わっていくことに意味があると思うんですね。変わってしばらくは「ここが違う」「こんなものが描いてある」と新鮮に感じて、毎日銭湯に通ううちにそれが普通になってくる。でも普通になってしまった後も、その日の気分や感情によって、絵から受ける印象がいろいろ変わったりする。それが2~3年続いた頃また新しい絵になって…という長いスパンで楽しむものなのではないですかね、ペンキ絵は。遊び心があるツウ好みの道楽と言いますか。そんな大らかな楽しみ方ができる銭湯の魅力を若い人たちにも伝えていければと、ブログで継続的に情報を発信したり、自分にできることを模索して仕事の場、発表の場を拡げていったりすることが大事なんだろうなと思っています。

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