先の読めない世界情勢や、厳しいエネルギー事情等を背景とした諸資材の価格高騰など、印刷業界を取り巻く環境は急速に大きく変化しています。印刷業経営者として、この急激な変化の時代をどのようにして乗り越え、いかにして経営戦略の修正をして、自社を成長軌道に乗せれば良いのか。そのヒントとなる情報をお伝えするべく、当社主催で開催している経営セミナーにご登壇いただいた講師の経営者の方に、直近の取り組みを含む、その後の成長戦略について語っていただく企画「経営セミナー講師に聞く『我が社の成長戦略ストーリー』」の第2弾です。
お二人目は、常に市場環境や競合状況の変化に対応し、業態の枠を超えて、次々と新規事業を立ち上げることで成長を続ける東洋株式会社(本社:北海道帯広市西10条南9丁目7番地)の代表取締役社長・角高紀氏です。全5回の連載を通じて、変化に立ち向かい、乗り越え続けることができる戦う企業風土のつくり方や新規事業立上げのポイント、今後の戦略などについてお伺いします。
第1回目となる今回は、東洋様の現状や戦う企業風土が醸成されてきた経緯などについて、角社長、専務取締役・井上雅之氏、印刷事業部執行役員・加藤雅章氏の3名にお話をお伺いします。聞き手は、富士フイルムグローバルグラフィックシステムズ株式会社で経営セミナー事業の企画・運営を行なっている営業本部 中林鉄治です。
■自社メディア事業などを武器に成長を続ける十勝の雄
中林 2019年の経営セミナーでは、自社ホームページでの事例紹介による新規顧客獲得やイベント事業、通販サイト「TON x TON Market」・求人情報サイト「TON x TON JOB」といった自社メディア事業などを通じて、売上高を順調に伸ばし、30億円を上回る規模に成長したというお話をお伺いしました。改めて、東洋様の概要と現状について教えてください。
角社長 東洋は昭和28年(1953年)に創立、昭和38年(1963年)に帯広市内の同業社4社が合併(後に1社が脱退)して東洋印刷株式会社が発足しました。そして令和2年(2020年)、東洋株式会社へと社名を変更しました。現在は商業印刷を軸としながら、長年培ってきた企画提案力を武器に、Web・動画制作やデジタルマーケティング、イベント企画・運営、求人支援などへと事業領域を広げ、幅広いサービスを提供しています。社員数179名(2020年4月現在)、帯広本社のほか、札幌支社、釧路支店、旭川支店の計4拠点の体制で事業を展開しています。
売上は、2020年3月期までは順調に伸びましたが、コロナ禍の影響を受けて2021年3月期には約20%減少しました。こうした市場環境の変化に対応するため、2021年は求人サービス「とかちジョブ」(9月)やECサイト「食べレア北海道」(10月)といった新規事業を立ち上げました。「とかちジョブ」は、地元新聞社との共創事業です。
中林 角社長ご自身の経歴についても教えてください。
角社長 私は、他印刷会社でSEとして勤務した後、2001年に東洋印刷(当時)に入社、CS(カスタマー・ソリューション)室などを経て、2013年に3代目の代表取締社長に就任しました。経営セミナーの際にもお話ししましたが、CS室は私が立上げた部署で、「デジタル技術を活用した業務改革」、Webサイトなど「紙媒体に捉われない新商品・サービスの開発」、主要顧客である「流通小売業向けの販促提案強化」といった取り組みを通じて、自社の変革を牽引してきました。
■先達から受け継いだ戦うDNA
角社長 お陰さまで当社は現在、北海道4位の売上規模の印刷会社ですが、これまで何度も厳しい状況に陥り、そして、それを乗り越えてきました。例えば、東洋印刷発足後は10年ほど赤字が続いていましたが、輪転機の導入を決断したことで、流通系の仕事が受注できるようになり、業績が好転していきました。
井上専務 80年代後半には、当社には商圏調査や商材開発などを行う観光系を得意とした企画部もありました。この企画部を発足させたことによって、売上はさらに伸びました。
角社長 しかし、バブル崩壊後の1990年代、流通小売業、学習塾、金融機関といった、それぞれが当時の当社の売上の10%以上を占める大切なお客様を、競合大手2社に奪われるという、深刻な危機に直面しました。
井上専務 この当時、企画部の責任者やスタッフが次々と退職していきました。企画の強みがなくっていったことに加えて、バブルが弾けたこともあって、競合大手が越境して十勝に進出してきて、圧倒的な価格競争力を武器に、どんどん当社の顧客に攻めてくるようになりました。当社は輪転機を持っていたこともあって、地元帯広では価格優位性があったのですが、結局はその地位に慢心していた井の中の蛙であり、全道的・全国的に見たらそれほどの実力があった訳でなく、競合大手には全くかないませんでした。
また、当社では当時まだアナログ製版でしたが、競合大手のうち1社は当時すでにフルDTPで制作してカラーカンプを出していました。また、その競合先は、アンケート調査やGISを取り入れたマーケティング支援サービスもすでに提供していました。
角社長 私は入社前のことなので詳細は分かりませんが、当時の社長(先代社長)はかなり危機感を持っていたと聞いています。
中林 その当時、工場でも危機感を共有されていたのでしょうか。
加藤執行役員 私が入社する前の話なので、詳しくは分かりません。ただ、当時の工場では、そのような事情は知らず、仕事がなくなるとか、そういう危機感みたいなものはあまり無かったと聞いています。当時の工場は「受注した印刷物を淡々と生産する」部署だったということもあって、会社が、お客様が減って厳しい状態にあるといった危機感が伝わりにくいところはあったかと。後にDTPが始まるなどの変化を通じて、少しずつ営業的な部分が見えてくるようになった感じでした。
井上専務 当時はまだ、仕事がありすぎて選べる時代だったというのもあったと思います。電話がどんどんかかってきて、それに対応しているだけでも仕事になっていました。大きな仕事がなくなっても、小さな仕事・中くらいの仕事は増えていく。そのため、減っていくという危機感はなかったのかもしれません。DTPも導入しないと決めていましたし。正に「内憂外患」という状況でした。
中林 その大きな危機を御社はどのように乗り越えたのですか?
井上専務 まだ入社数年目の一般社員だった私が、先代社長から奪われた主要顧客を取り返すことを任命されました。私は、まず、自社の立ち位置や競合との差を知るところから始めました。それが分からないと、何をすれば良いのか分からないので。特に顧客の業界については勉強しましたね。
お客様を奪い返すに当たり、先代社長や当時の工場長にお客様へ同行してもらったりしました。それは、営業の現場そして競合大手との圧倒的な差を理解してもらうためです。これには、お客様と自社の会社としてのつながりを深めるという意図もありました。
同時に、当時、社内では出来なかった、DTPでのデザイン・制作を外注する仕組みをつくったり、お客様に深く入り込んでニーズにきめ細かく対応した提案をしたりするようになりました。また、一方でチラシに使う用紙を統一するなどして、価格競争力も高めました。こうした取り組みを通じて、流通小売業のお客様を奪い返すことができました。
角社長 先代社長も、お客様に対する付加価値について常に考えていました。「企画が大事」だとも言っていました。トップダウンではなく、お客様や営業の声を聞く耳を持っていた社長だったと思います。私が入社した当時、当社は印刷しかできない会社でした。印刷会社として当たり前の話なかもしれませんが、印刷は縮小していく斜陽産業だということも理解していました。先代社長も、今後は印刷だけじゃダメだ、という意識があったんだと思うんですね。
私も入社当時、自分のミッションを「会社を変革すること」「印刷以外のこともやれる会社にすること」だと考えていました。待ったなしのタイミングだったんだと思います。私が会社を立て直せなかったら、私が入社した価値がない、みたいな。
井上専務 このような最大の危機を乗り越えられたこともあり、厳しい状況に立ち向かい変化を恐れず戦う風土が会社の中に醸成され、そのDNAは、多くの社員に受け継がれてきているのだと思います。
■信頼できる右腕との二人三脚
中林 売上高の合計3割以上を占めた主要顧客3社を奪われるという厳しい状況に立ち向かい、うち1社を奪い返すことができた理由は何だったのでしょう?
角社長 信頼できる右腕、井上専務がいたことです。
井上専務 角社長と出会えたことは、本当に幸運でした。システムに強い角社長と営業畑の自分がうまく噛み合ったことで、社内にイノベーションを起こすことができました。何より、社内の変革を進めていく際に「後ろ盾」になっていただけたのがとても大きくて、安心して全力で戦うことができました。角社長にはその分、色々なところで相当な苦労をお掛けしたと思いますけど。ただ、私みたいなのがいなかったら、社長も色々変えられなかったと思うんですよね(笑)。運命的な出会いでした。
私自身も、自分の右腕と呼ぶことができる部下に恵まれました。加藤執行役員もそうですが、互いに辛辣な言葉も言えるぐらい近い関係です。みんなと苦労を共にしてきて、強い信頼関係を築くことができたと思っています。
加藤執行役員 角社長と井上専務は、お互い本音でよく議論されています。時には、激しい口論になったりすることもありますが、ただ、側でよく聞いていると、お互いに自分の意見を主張し合ってはいるのですが、実は同じことを言っていることもよくあります(笑)。同じ内容のことを違う言葉や異なる視点から言っているだけとか。なので、冷静になったらお互いに譲るところを譲って落ち着きます。お二人には、「二人三脚」という言葉がぴったりです。
中林 これが、もしワンマン社長のトップダウン体質の会社だと、こうした「信頼できる右腕との二人三脚」の経営は難しそうですね。
角社長 当社が、4社が合併してできた会社だということも、関係していると思います。1社減って3社になりましたが、合併当時の社長・専務・常務は全員元々は社長ですから。3社の血が混ざっていく中で、オープンな社風が醸成されたというか。実際、こうした社風のお陰で私も入社できましたから。
中林 角社長もオーナー社長ではありませんからね。
井上専務 ガバナンスが効いてるというか。ウチは、以前から、社長一人の暴走が許されない会社だったんだと思います。
角社長 先代の社長はその良いところをしっかり受け継ぎ、私達の世代に引き継いだと思います。先代がワンマンになっていた可能性もあるじゃないですか。トップダウンの会社になったり。
中林 でも、そうはしなかったと。先代の素晴らしいところですね。聞く耳を持っていたと。
角社長 ボトムアップを求めていたんですね。そういう姿勢があるから、私達も色々と提案ができた。
中林 そうした文化があるから、新規事業にどんどん取り組むことができているのでしょうね。
■勝てる自信を得た「帯広の病院」プロジェクト
中林 御社では、このような戦う意識をどのように社内に広めていったのでしょうか。
角社長 2004年に「帯広の病院」プロジェクトを成功できたことが本当に大きかったと思っています。「帯広の病院」は当社の創立50周年を記念して発行した、帯広近郊の医療機関を紹介するガイドブックです。これに取り組んだことで、スムーズに広めることができたと思います。1年間のプロジェクトでしたが、社員全員で苦楽を共にして成果を生むことができました。
井上専務 それまでの当社はすぐに諦めるというか、「この程度でいいよね」という雰囲気になっていました。しかし、このプロジェクトでは、全社員が妥協することなく頑張り切ることができました。
角社長 それまで当社は、セクショナリズムというか組織ごとの縦割りが強い会社でした。しかし、このプロジェクトを通じて、横で連携する文化を作ることもできました。
井上専務 このプロジェクトで学んだひとつに「常識を疑う」ことの大切さがあります。これは、今でもいつも言っています。医療広告には規制があるのですが、その規制に沿ってつくってもただの電話帳にしかならない。読みものにはならないんですよ。私はプロジェクトの責任者でもあったのですが、これを知った時には「何これ、企画倒れだぞ」と思いました(笑)。
しかし、いろいろな角度から考える中で、「そういえば(2003年は)ウチの創立50周年記念だ」と気が付きました。そこで、創立50周年の記念誌として製作し、「広告ではなく広報記事です」、というコンセプトを打ち出しました。つまり、当社で病院を取材して、地域の皆さんが知りたい情報を提供する、そういう媒体にしました。そして、広告費ではなく協賛金としてお支払いいただくことで、収益化することを考えました。
中林 「帯広の病院」が発行された頃には戦う意識、勝てる意識というのは社内で広まっていたのでしょうか。
井上専務 「帯広の病院」の頃は、まだ腹落ちしていませんでした。私も「いいからついてこい!」という感じでした。ただ、一部だったかもしれませんが、「ウチでも勝てるぞ」という自信が醸成されてきていたと思います。「ウチの会社、捨てたもんじゃないぞ」という雰囲気が広まってきたというか。
角社長 このプロジェクトに成功したことで、新しいことに挑戦する会社になった、というのは間違いありません。以前は、営業が受注してきた印刷の仕事を社内でただこなしていたという組織でした。それが、自分たちでやりたいことを発信をして、会社として取り組むようになりました。そうした流れの中で、CS室や他のプロジェクトも立ち上がりました。
中林 加藤執行役員も、何か変わり始めたという印象を持たれましたか?
加藤執行役員 システムやマーケティングを担当するCS室を社長がつくったことで、ウチの強みはこうした部分で、それを伸ばしていかないとダメなんだ、と感じました。それまでは考えなくても仕事が受注できていたのですが、今後はこうした強みを活かすことを考えて仕事をしていかないと、と。
あと、それまでは、年功序列の会社だったのが、能力や成果で評価される会社に大きく変わりました。自分も「正しくないことは、しっかりはっきり言った方がいいんだ」と思い、実践するようになりました。
中林 それまでは、セクショナリズムが強かった会社が、お客様のことを考え理解して行動する会社に変わった、人事の評価基準もそうした流れに沿ったものに進化した、ということですね。
■「戦う企業風土」を醸成する仕組みづくり
中林 御社の中で、井上専務のように「戦う」社員の割合はどのくらいなのでしょうか。
角社長 全員が全員、戦うということではないです。一部ですね。
井上専務 競合大手から顧客を奪還した頃は、私を含めてまだ数名でした。戦い方も「いいからついてこい!」といったものでした(笑)。現在でも1〜2割くらいだと思います。ただ、私はもっと増やしたいと思っています。市場環境が変化しているので、どんどん戦って色々なことをやらなければなりませんから。
中林 戦う人を増やす、戦う企業風土を醸成するために、どんな取り組みを進めていらっしゃるのしょうか。
角社長 現在、社員一人ひとりの役割と責任を定義して、人事評価にも反映させる取り組みを進めています。これまで当社では役割と責任が曖昧で、約束として決めていませんでした。それを明文化して共有し、また評価項目としても活用したいと考えています。
井上専務 最近になって、私は組織についてより強く考えるようになりました。戦った経験などを記憶として残し、それをきちんと活かすことができるような組織をどうやったらつくることができるのか。定型業務はもちろん大事ですが、本を読むなど知の獲得に関わる活動についても標準化したりすれば、効率的で強い組織をつくれるのか、とか。
教育も大事だと思っています。基礎的な教育も含めてです。例えば、小学校の授業内容を理解しないと大学の授業についていけないですよね?全員が同じレベルにならないと話が伝わらないし、腹落ちもしません。この時代、全社員のベクトルを同じ方向に向かせることが重要なので、教育は大切です。
角社長 当社では考え方や理念を昔から大事にしてきていて、これらは社員のベクトルを合わせる際の指針になると考えています。私も、「この会社は何のためにあるのか」といった思いなどを、自分なりに伝えて行きたいと思っています。その一環として、6年ほど前に行動指針をまとめた小冊子を作成しました。それを「東洋の心得」という名前の手帳にして、全社員で朝礼で確認しています。
中林 人事・組織・教育など、様々な観点から戦う企業風土を醸成する仕組みを整えているのですね。ありがとうございました。第1回のお話はここで終了とさせていただきます。次回は、顧客との強い関係を構築する営業戦略の立案・実践について、詳しくお聞きしたいと思います。新規先に対するプロポーザル案件で常勝となるまでの経緯なども含めて、お話を伺えればと思っております。次回もよろしくお願いいたします。